~音楽と自然の力につつまれて~ e.w.Hanaの記録

幸せになりたい!幸せを分かち合いたい!言葉ではうまくコミュニケーションが取れないけれど 音楽はできる青年との暮らしの中で、 目の前に起こる出来事をどのように受け止めるか 自然の力や音楽の力に癒されながら模索していく日々の記録です。

自分で締め付けるのをやめてみたら

真面目に合理的成果を求める態度が‟よい”のだという感覚は
正しいはずの歩み方だということに
なっていた私の中で、
最近、
‟ムダ=豊かさ”である。成果を得られるまでの豊かな時間は
味わう為に与えられる。
何かに取り組むときも、真面目≠しかめっつら。神妙な顔でいることよりも、
笑顔でキラキラと今の心地よさ(おそらくはムダなところ)を感じでみよう。
というような、呟きが生まれています。

前者の考え方は、経済至上主義の社会が求め、
理想として何十年もかけて私たちに刷り込んできた感覚なのだということを
訴えている本も見かけ、やっぱりそうよね・・と呟いたりしています。

無駄な時間(本当はムダではないけれど)を本当に「これでいい」と思えなければ
ネガティブさが生まれて、心地よくなることはできません。


そして、昨日見つけた本の一節
『わたしたちはとんでもなく強い力で、自分で自分を締め付けている』
というフレーズがここに重なって、ひどくその意味を体感した気がしました。
擦り込みから逸脱できているときとできていない時がまだまだら模様の状態ですが
その締め付けから解放されたときの、‟心地よさ”が分かり始めた今。

今日、、masaのピアノレッスンを見ている間だけでも、
そんな、緩んだ気持ちで見ていたら、
心地よく音楽を教えて頂いている時間を感じられました。
これまでは、というと
本人の演奏を 無意識のうちに、客観的=厳しめ=ネガティブに見ようとする自分がそこに居て、
そのような視点が‟真面目”な態度だと、どこか
思い違いをしていた気がします。

今日、秋の発表会の日程が、masaのお仕事のある日と重なってしまったことを知りましたが
「どうしよう・・・」という反応は自分の中に発生しませんでした。
「あら〜。お仕事から直行は初めての経験。。。」と思うくらいで、
随分力が抜けた自分でした。対処しない、という訳ではありませんが、
どう対処できるかな・・?と思うだけで、先に自分を追い詰めなくなっていました。


夕方、
歯科医院で薬をいただき、帰ってきたポストに本らしきものが届いていました。
「今日注文した本がもう届いた??」そんな訳はない、
なんだろう?と取り出すと、妹からの郵便です。

絶縁状態を辛うじて回復した程度の、状況の彼女から、何だろう・・?
半分ドキドキしながら、封筒を開けた瞬間
「あっはっはっ!!」
と声を上げて笑ってしまいました。

 これだったんですもの。。。
49って‟崖”だったの〜?
とここでもひと笑い。

中に入っていた手紙を読んで、やっとこの本は妹自身が読んだのだと
そしてついでに、崖が見えないままあの世に来てしまった(;´∀`)私も読むかな?
と送ってくれたのだとわかりました。
(それにしても、自分が読むには隋分先取りして老化を心配しすぎじゃないですか?
と言いたくなりますが・・)

5枚に及ぶ長めのおしゃべりのような手紙は中学生が友達にする
交換日記のような内容で、人恋しさのなかで頑張っている彼女の
心情が、たいして深い意味を持っていないこの本にカモフラージュされて
ここにやってきたのだと理解しました。

心を柔らかくした途端にやってくる、柔らかめのコミュニケーション。
今日は朝から数えてそんなことが3件ありました。

準備(スペース)ができるとやってくる理の話を
昨日書きましたが、今日は心のスタンスをベースにした
‟その2”みたいな、1日でした。

夕飯クリップ☆彡