~音楽と自然の力につつまれて~ e.w.Hanaの記録

幸せになりたい!幸せを分かち合いたい!言葉ではうまくコミュニケーションが取れないけれど 音楽はできる青年との暮らしの中で、 目の前に起こる出来事をどのように受け止めるか 自然の力や音楽の力に癒されながら模索していく日々の記録です。

身体を大切にするという意味

今日はゴミの収集がおやすみの日で、時間を気にすることなく
ぐっすりかたまった筋肉を休めていました。

日中も、3度の食事の支度と洗濯以外には
夕方まで同じ椅子に座ったままだったという記憶です。
こういう生活ですと、ひざの調子は殆どわからないくらい普通に戻るのです。

夕方からあちこち出歩く程度の間なら、普通のスピードで動き回ることもできます。

これが、リハビリの先生曰く、原因を特定しにくい理由。
靭帯とか、関節などに明らかな損傷がある場合は
使う日は痛い、使わない日は痛くない、などとという差は生じないからと。

でも、今日のように足を使わない生活をしたら、筋力がぐんぐん衰えて
良くないような気がするので、いったいどうしたらよいものか・・。

お昼はできるだけ短時間で済ませたかったので、パンケーキの中に
ナッツやドライフルーツをたっぷり入れてココナツオイルも使って、
オールインワン的なスナックになりました。
               
メールを開くと遠く離れた友人からの久しぶりの便りが来ていました。
珍しく長いメールで、どうしたのかと思ったら、
ちょっとしたきっかけで受けた健診から変異細胞がみつかり再検、精密検査、と辿りながら、
本日めでたく、‟観察で問題なし”をいただけるまでの約半年のことが
綴られていました。

その期間の心境をわが身に置き換えて想像すると、
今無事であることの安堵が、ずっしりと重い感謝へと変わります。

考えてみれば、子どもも自分も親もが取りあえず健康で揃っている期間というのは
家族によって差はあるものの、一生の中で本当に短い期間で
でも、健康ゆえに活動レベルが高くなりすぎて、ストレスや過労になる日々のなか、
家族全員の身体に不具合がないことの奇跡的ありがたみを忘れてしまうのも
この期間なのではないかしら。

今日揃って、食べるご飯も、制限なく好きなものを準備できること、
それだけでも感謝すべき幸せです。

話が変わりますが、今朝、水切り籠の中で小さいお茶碗が割れているのを
発見しました。大切だった、幼稚園の卒園記念。
形あるものは壊れる・・・。
くっつけると割れ目がわからなくなります。その状態にしてそおっと置いておいた
お茶碗が、体もおなじであると教えてくれているように見えました。

モノではないけれど、生まれた時にいただいた体は物質であり、代替えはありません。
「身体を大切にしなさいよ」・・親から言われ慣れていたはずのその言葉をふとおもいだしました。
この言葉が‟こわれないものを大事に扱う”と聞こえていた自分。
遅すぎるかもしれませんが、それは、‟壊れないようにしないとこわれるのだから”
という意味なのだと響き始めました。

夜、masaを迎えた車の中で、暖かい彼の手をとり、
お互いが怪我もなく、手のぬくもりを確かめ会う1日の終わりに、
明日のお互いの身体を何の心配も持たずにいられることがどれほど幸せな事なのか、
しばし感じていました。

生まれたばかりのmasaの身体に触ることが許されたのは生後10日目。
それも保育器の穴から入れた指先で、身体の一部をさわる程度でした。
あの時の、喜びがふと蘇る、そんな今宵です。