~音楽と自然の力につつまれて~ e.w.Hanaの記録

幸せになりたい!幸せを分かち合いたい!言葉ではうまくコミュニケーションが取れないけれど 音楽はできる青年との暮らしの中で、 目の前に起こる出来事をどのように受け止めるか 自然の力や音楽の力に癒されながら模索していく日々の記録です。

‟全力教室”より

ポストの中に、郵便を見つけました。
            
昨年の12月のmasaのファーストリサイタルで
撮影協力していただいたterashimaさんから。
沢山のお客様との出口ショットがここに入っていて、
とても楽しみにしていました。

お忙しい中、本当にありがとうございました。

テレビをつけていたら‟全力教室”で宮本哲也先生が授業をされていました。
内容そのものは子供を勉強好きにさせるポイントから子供の中に育てたいもの、
というテーマだったのだすが、その中で、
ちょっと物思ってしまった一節がありました。

「ハードルを越えたご褒美はもっと高いハードル」

これは、人生訓でもよくある考え方です確かに。
ただ、子供の頃の記憶を辿れば、この言葉は的を得ていて、
実感として‟もっと高いハードルを与えられること”=そこまでのことを突破したと認めてもらった
として、嬉しかった自分いたことを確かに覚えています。
次のハードルを与えられることに喜びを感じていたと思います。

それが、‟折角こえたとおもったら、又次のハードル・・?”という
新たなハードルがもはや嬉しいと感じない反応をするようになったのは
いつの頃からだったのでしょう?
どこで、その反応が変化してしまったのか、その理由は何なのだろう?と
少し考えてみました。

たぶんそれは、人生に与えらえるハードルが他人に意図的に与えられる評価の対象ではなく
もっと複雑な状況で発生し始めた時です。
一つ一つの障害をクリアした時に、いつそれをクリアしたのか
わからなくても、いつの間にか乗り越えて安定している自分に気づいたときに
自分を認めてあげることを(自らが)していなかったからかもしれません。

クリアしたこと認め肯定されることなく放置されている
‟自分”が少なからず蓄積されていて、
そのままの状態で次のハードルが天から与えられると、いつも‟立ち向かっている”ばかりの自分だけが意識の中でクローズアップされて記憶に残るのです。
それはまるで、「宿題をしなさい」と言われてから宿題をしているときのよう。
「いつの間にやってたの?」と言ってもらえる時の‟いつでも遊べる余裕”
がないと、なかなか次の大舞台を提供されても、「よし♪かかってきなさい」
という勇気は持てないものです。
そのハードルが‟舞台”ではなく立ち位置さえわからない‟混沌”だったりする・・・。
その課題に取り組むことになる直前の自分が
ちゃんと天からも認められる成長を遂げたことを喜びとする瞬間があれば
次のお題を与えられたとき、もう少し自信をもって取り組むことができるのかもしれません。

どんどん高いハードルを与えてほしかった頃の自分が
どれだけ大切にされていたかを思い出して
今日の自分をちゃんと大切にすることから始めよう、と思った今宵です。

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夕飯に登場したスティックブロッコリーは北海道産なれど
もうすっかり春のにおい。
茎の柔らかさは、食感が新鮮なアスパラガスのごとくみずみずしくしなやかでした。
            
今日の日を生かされたことに感謝しながら・・。