どんな風に弾いていくのか・・・
いつもリフレッシュに使う書店での2時間を、
今日は殆ど楽譜売り場で過ごしていました。
欲しいものが決まっているクラシックのテキストを数冊確認した後
唱歌伴奏のバリエーションや選曲の参考に色々見ていました。
外国の訳詩で入ってきたような唱歌も含めてみていたら、
ヒーリングミュージックや‟静かな曲”とタイトルを打たれたグループを
総なめしていました。
・・結局、伴奏版にメロディを混ぜたものを書き直すしかないかな。
なぜなら、伴奏専門の譜面を演奏しながら
難しい日本語のmasaが聞いたことのない唱歌の歌詞を読んで弾き語りするというのは、
洋楽の弾き語りをする以上に(音源がない分)大変だし、
かといって、伴奏譜だけを弾いても声を出して歌ってくれる人(スタッフもヒトによるから)がいない、と成立しないから。
演奏としては中途半端に感じるそういう弾き方を
大量生産する方向に行かなくちゃ、と向けられている意識の下に、
これまで、演奏に持っていくと決めたた曲を、それなりにちゃんとした
内容にしたかった、自分が大切にしていた部分が抵抗しているのを
感じていました。
クラッシック曲にしても、弾き語り曲にしても、その他のアレンジ曲にしても同様です。
イージーリスニングの、メロディーだけがわかればいいような演奏を求められているとはわかっています。
例えばショパンの『別れの曲』だって、メロディだけ追った簡単バージョンなら
あっという間に弾けるようになる簡単なものになります。
そんなアレンジ譜がならんでいるような曲集をめくりながら、
レク奏者として、(masaの若さで)そのレベルで大量生産をしていくしかないのか、
と葛藤していたんだと思います。
これから、本格的な曲をやっといろいろやっていこうというところなのに・・・
という気持ちがあります。
すぐに、いろいろ言われなければこんな風に悩まないのでしょうが
「いそいでいませんから」といいながら、
演奏休止や隔週演奏を提案するも「しなくていい」といわれつつ、「クラシックは難しすぎる」と言われてはね〜。
出張演奏先ホームの責任者様が
もともとのmasaへの理解があってもなくても
音楽に縁遠いかどうかということ以前の何かがあれば、
このような無駄な悩みの時間は生まれないとも感じています。
今、このような経験をさせて頂いている中で
自分が強く反発したり感じたりすることを通して、
本当は自分がどうしていきたいのか、確認させられているような気がします。
それは、masaの音楽に関しての事だけなのか、こだわっているのは実は違うことなのかは
まだはっきりとはわかりません。
でも多分、なにか抵抗を感じるときというのは、発見のタイミングなのでしょう。
ありがたいことだと理解したいと思います。
明るい気分になりたくて、今日のパスタは
春を告げる魚、ニシンを使いました。
ニシン大好き♪
また明日、明るい気持ちで起きてこられるように、
今日の経験をしっかり感謝して眠りにつきたいと思います。