‟すぎなが”の揚げだし
自分の周りで起こっていることや、それに反応する自分の気持ちを
構成している考えをゆっくり一つ一つ整理したい、
と思うときって、その作業が終わるまでの時間を守りたくて、
生活の全てから抜け出しどこかに山籠もりしたくなりませんか。
今日はそんなことを感じながら、大根を剥いていました。
長崎発の揚げ出しは、豆腐の軽さが先行しながらもすり身のうまみがあって、
お大根を美味しくしてくれます。
脇にある魚のお皿は、masaが通っていた幼稚園の山の土で作った5歳masaの
作品です。幼稚園の粘土の時間ね。
お皿の中に、竹串で書かれた印の名前があります。
ご飯のお茶碗も、スープの器も同じ幼稚園の山の土ものです。
お茶碗は卒園の記念に一つ一つ園長先生が焼いてくださったもの。
幼稚園時代は、日常の食器もほとんど地物の土ものでまかない
山の子の恵みを一緒に受け取っていました。懐かしいな・・・。
後で気づいたことですが、
山ごもりしたい気分がこんなところにも現れてしまうのがおもしろいものです。
自分の周りに現れる人たちの言動に動揺することが重なってくると、
それは、‟自分の中の一部”を映し出しているということを、どう理解し、
それをどう愛するのか。
頭が考え、整理したがっています。
頭が前に出てくるほど、その判断は、導いてくれようとする感覚から遠のいていくのに。
感受性がダメージを受けていると、
第2エンジンの頭脳が、‟私が私が”と解決しようと出てきてくれる・・。
大丈夫。と包み込んでくれるような食べ物を求めて
煮物を作っていたような気がする今宵です。
台所に立てる時間に感謝を込めて・・。