~音楽と自然の力につつまれて~ e.w.Hanaの記録

幸せになりたい!幸せを分かち合いたい!言葉ではうまくコミュニケーションが取れないけれど 音楽はできる青年との暮らしの中で、 目の前に起こる出来事をどのように受け止めるか 自然の力や音楽の力に癒されながら模索していく日々の記録です。

こどもの‟発達”に悩むお母さんへのエール

今日は、近くで雷が落ちたらしく、
すさまじい光と音の後、消防車が6台くらい窓の外を通り過ぎていきました。
たまたま私自身が切れそうになっていた瞬間で「ドド〜〜ン!!!」と来たので
あまりのタイミングの良さにすっきり(*´▽`*)。
笑えてしまいました。

さて、お題に移ります。
その道の‟専門家”はいろいろいるけれど、
親は子供の最も詳しい専門家であると思います。
(一緒にいる時間や関心度が極度に薄い場合は別としてですが。)

‟普通の”子の親にとっては当然のように感じることかもしれませんが、
‟普通じゃない”枠に振り分けられた、或はボーダーにいる子の親にとっては
‟専門家”の方が、わが子にとって詳しく正しい存在であるかのように
自信を失いやすい環境が、この国にはあるように思います。

特に知的な障害があると言われているだけなら
早期診断・早期療育の名を借りて、‟特別な”わが子の‟特別な”教育を
早くから専門家の手に委ねきってしまうことは、その子が歳を重ね成長するほど
自分の手が及ばない教育的判断の世界に手放してしまうことになると思います。

私はわが子の教育に携わる過程でそれぞれの道の専門家の援助を受けながら、
親としての手綱(たづな)を離さずに来たので、ここに来て思えることが
いろいろあります。

作業でも、技術でも、勉強でも、なんでも同じですが、
‟できる”はずの道を普通の人と同じように省略せずに繰り返し教えれば、できるようになるということをはっきり言えるようになるのには、少なくても10年以上の様々な働きかけの継続と成果を通して積み上げる経験が必要だと思います。
‟専門家”のように大勢の被験者のデータを統計するような見方ではありませんので
主観だと言われてしまうでしょう。それで結構です。


でも、お医者様など、時々観ていただく関係ではなく、
ほぼ毎日指導してもらえる先生は、数年で変遷していくのが通常でしょうか。
特別支援教育の先生でも、ジョブコーチでも同じことです。
だから、専門家を養成する教育における‟障害児”の基礎知識としての
ガイドラインは、実際の可能性を最小限にかたどったベースの中に
ひかれているのではないかと想像します。
なぜなら、‟できない”を前提にすれば指導する方にストレスがかからないからです。
当人にストレスがかからないように、と置き換えれらているようですが、
実際は、教育実施者のほうにストレスがかからないことに主眼があるように見えるのです。

たとえば、私のように‟できる”を前提に教えていると、その習得のスピードが
自分の意識している希望と合わない時、ストレスを感じます。
人間ですから、同じことを何度も繰り返して言っていると、もうわかっただろうって
勝手にそうしてもらいたい、と思う時があります。それでも、まだわかってないと、
この人は、わからないんじゃないだろうか。。。とがっかりするわけです。
でも、これまでも同じ経験をしていますから、ちょっとクールダウンしたりしながら
もう暫くつきあって同じことを繰り返していると、
ある時、突然すらっとできるようになる時が来ます。

そこまでにかかる道のりが、長いか短いか、で向き不向きを痛感するわけですが。

しかし、そんなところまで、一人に付き合っていたら施設や学校や病院は
立ち回りできません。だから、‟できる”ことを私から見れば米粒ほどに
絞って‟こんなに簡単なことだからできるでしょう”みたいな感覚で
与えられていることが多いのではないでしょうか。
勿論幼児や低学年の子供の場合はもう少し、教育的に豊かな働きかけがありそうですが
そのまま任せて成長した先にある教育はそういった、‟できない”を前提にした中での
世界だということです。
目先を変えればできる、とか、これならできるとか言ってみても
どちらにしても健常の人よりは教える手間がかかるから、個別のプログラムで
可能性を測るような余裕は家族以外にはなかなか持てないのではないでしょうか。

そういうことに気づいたとき、すぐに教育を見直して働きかけの試みを手元に
引き寄せるだけのわが子に関する経験を、ちいさいころから寄り添って
積み上げておくことがとても大切だと思います。

masa がまだ小さい頃、知的障害の方のガイドヘルパーの研修を受けました。
この研修では、ヘルパーを利用する‟知的障害”の大人の理解として、
‟中度ならひらがなは読める人もいる。重度なら文字は読めない。”と考えるように教えられました。当時すでに漢字を書いていたmasaの親としては、とても複雑な気持ちでその説明を聞いていたことを思い出します。
このような単純な誤解はすぐに取り払えるし、とるに足らないことですが、
そのような落とし穴がたくさんある‟専門”教育を受けてきた人が、‟専門”機関の中での経験を前提に働きかけるのが‟専門家”であるということを忘れてはならないと思います。

お子さんの専門家は紛れもない、お母さんです。
もっとたくさんのお母さんのお手伝いができればいいな、と願うHanaです。

いつもの書店に入った途端、ぎっくりした腰が、汗をかきながら何とかもとに戻り
いつも通りの日常をこなせたことを心から感謝している今宵です。