“おはなし”の時間
ピアノのレッスンの帰り道、何となく立ち寄ったcafeサイドに、
こんな看板を見つけました。
まっすぐ家に帰るには、少し心がうつむいてい捜し物をしているような所だったので、
偶然のラッキーに甘えておはなし会へ。
お話をするときは、真ん中にろうそくを一本ともして時間を共有します・・・。
こどもと一緒です。大人のおはなし会にも赤いろうそくがありました!
7名のかたりべさんが7つのおはなしをしてくださいました。
ほ〜たるこい、やまみちこい、
あんどの光を ちょいとみてこい♪
とみんなで声を合わせてはじまりはじまり。
東北民話あり、外国のおもしろいおはなしあり、
一話 を本なしでまるまる語る緊張感の微妙な息づかいをを最前列で感じながらも
いつの間にかおはなしの時間を共有する豊かな時間の中へ誘われていきました。
語られる言葉だけが頼りの“語り”は、聞き手がイメージを膨らませてお話の世界に遊ぶことを許してくれます。
“お話を注意深く聞く”という時間を保証されていることが、子供達にはとても大切なことなのだと、聞いたことがあります。これは、大人達にも必要な時間だと、体験すると実感します。
絵本はたくさん読み聞かせている、という方で、“かたり”は本が無いときのものと考えている方には、是非体験から始められたら良いと思います。
絵を見ながらおはなしを聞いているときよりも、語りのなかで頭が考えることはとても豊かです。
感覚が研ぎ澄まされていくのがわかります。
お話の中には、“大きなかぶ”のように同じ台詞の繰り返しを重ねていったり、その間の過程をよりも合理的な方法をみんなが知っているようなタイプのものもありますよね。
例えば・・今日あったおはなしの一つ
(『スヌークさん一家』より)寝るまえにろうそくを消そうとしたスヌークさん夫婦。
スヌークさんは下唇を上唇にかぶせてしか息を吹けないので、息が上に行ってしまってろうそくが消えません。
スヌークさんの奥さんは、上唇を下唇にかぶせてしか息を吹けないので、息が下に行ってしまってろうそくが消えません。むすこのジョンは口の右端からしか息を吹けないので、息が横の方に行ってしまってろうそくが消えません。娘は口の左端からしか息をふけないので、・・・。となり、通りがかりの警察官を家に呼び込んで、吹き消してもらうのですが、
二階の寝室が真っ暗になってしまって、足下がみえないから、とローソクをともして警察官を玄関まで送り届けたスヌークさん。また、最初からやりなおしです。ろうそくの火が消えません。・・・というお話。
私達のいつもの生活の中では、省略・要約して内容を伝えることを要求されることがなんと多いことでしょう。上に書いたみたいに少し省略したおはなしだと、もう全然たいしたことの無いおはなしになってしまうのですよね。
結果がわかっても、次に誰が出てくるのかわかっていても、結果に至る途中の空気こそが、おはなしには必要で、そういう時間が生きている人間には必要な、保証された時間のような気がします。
これは、以前「幸せのパン」という映画を観たときに感じたことと同じでした。
合理主義のビジネスの世界では不必要なことのように響くことでしょう。
でも、そういう、途中の時間を保証されずに結果を求められるうちに、知らず知らずのうちに自分の内面を傷つけている大人は多いと思います。
今日、集まっていた方は、高齢の方が殆どでしたが、
お仕事が忙しいバリバリの方にこそ、必要な“おはなし”の会だと思いました。
ある企画をあたためている自分の中に最近生まれている不確かさ故の焦りのようなものを、
クリーンにするヒントをいただいた気がしました。
ゆったりとしたここちよい集いに入れていただいた恵みに感謝を込めて。