追いつめられていなくても、少し人生が楽になる考え方
昨日よりは、幾分蒸し暑さが引いたのでしょうか。
今日は扇風機の風がとても涼しく感じられました。
あ・・・、扇風機はピアノのレッスンで。
我が家は扇風機くんもまだ登場していません。
昨日、ウオーキングを一緒にしたTちゃん曰く、
「今日は風も結構ぬけるし、昨日よりいいのじゃない?」と言うので、
窓開けてみましたら、はいはい、結構涼しいです。
南の日が差すお昼間は南側の部屋が暑いですし、
西日の差し込む時間には西日の暑さがその方角の部屋にこもりますが、
その反対側の日陰の部屋はひんやり♡。空気が通って涼めます。
部屋続きでも違うので、太陽の力の凄さを感じます。
ということで、暑さ対策は窓開けで落着するところまで落ち着いてきました。
masaが練習する時間帯は全ての窓を閉めるので、その時だけは、
急に中東にでも来てしまったかのような暑さに耐え、
息継ぎをしないでクロールする感覚で、耐えられなくなると休憩中に窓を開け、
また、締める。
そんな我が家です。
☆ ☆ ☆ ☆
さて、
昨日、数世代に渡る戦争の影響について感じていることを書きましたが、
その副産物的効果とでもいいましょうか。
にわかに、自分の人生が自分だけのものではない、ということを
「そうなんだ」と、これまでと別の意味で感じ始めました。
今の自分が自分の一生として自分だけのもの、と思っている体験(過去)や未来は
自我という”枠”で外界と分けなくてもいい、のかもしれないなぁ、と
漠然と感じていると、自分の体験中の事も含めて、自分の人生で起きていることは
単に‟全人類”の中の‟私方面”辺りで起きていることであって、
それを自分に向かっているものだとカスタマイズしてしまい、
更なる危険が及ばないように防御線を張る深層心理が、
その事象を膨張させている、というのが‟悩み事”の原点なのかもしれない、
と、かなり遠い、高い高い空の上から自分を見ているような
気分でいた今日でした。
九州の大雨のように、大変な状況の方々がいらっしゃる横で
このように書いていることは、不謹慎かもしれませんが、
どのような経験も、何世代もの人生の連なりとしての人類の‟人生”(歴史)を
生きている途上の自分が‟人類代表”として一事象に
遭遇してしまったのだ、と
敢えてその出来事が、自分めがけてやってきたわけではなく、その事に
自分がどう対処し、何を残すのかというところで、‟人の歴史”的に僅かに貢献する
チャンスを与えられているのではないか、という見方に変わってきたのでした。
それが、ごく個人的な事だと感じることに於いてもです。
そして、自分が何か残したとして、それは、自分が残したのではなく、
人類の一人、‟ある人”が残した点に過ぎず、自分のことであるかどうかに
あまり執着せずに感じるようにすると、自分一人でこの人生を何とか
しないと(何とかならないと)、といつの間にか思っている‟一人の人生単位”で
成り立つことが目的であるという気持ちがぐっと和らぎ、‟なんとかしよう、と
思っている力が周り(長い長いスパンで広い広い範囲で)沢山働いている中に
自分がいるはず”という気分になることができます。
人の世界の、(空間時間の)縦横の『繋がり』の中に自分が居るのだと
ハンモックの上にのっているような、気分で明日も生きて行けたらいいな、
と思った今日でした。