~音楽と自然の力につつまれて~ e.w.Hanaの記録

幸せになりたい!幸せを分かち合いたい!言葉ではうまくコミュニケーションが取れないけれど 音楽はできる青年との暮らしの中で、 目の前に起こる出来事をどのように受け止めるか 自然の力や音楽の力に癒されながら模索していく日々の記録です。

発達障害や自閉症のお子様を持つ方には、参考になるかしら

ピアノの先生から渡されていた便箋に、先日の発表会の
感想を書くことになっていました。
個人的には、できれば思い返したくない感情があって、提出する今日まで
そのままになっていました。

masa自身はどう思っているのかな、と、彼の言葉を引き出そうと
作業をはじめたところ・・・
覚えていないようなのです。。。。。当日の演奏写真を見せても、
アンサンブルの写真には、「ありのままで。」と言えるのに、自分のソロは
まるで、記憶喪失のように、何を弾いたかさえ思い出せません。

色々な聞き方で彼の中に残るものを聞いていくうちに、
リハーサルでバタバタとアンサンブルの使用楽器や連弾の立ち位置など、
ピアノから離れた諸事情でステージ上をあちこち指示されながら動いたりと、
面識の浅い方からの、その場的打ち合わせに強く意識が
動いていて、その場で生まれた不安を打ち消すために意識が鈍くなっていたようだと、わかってきました。
そして、そのまま休憩もなく本番にはいってしまった中では、何がメインで、
どこからが本番で、何が大切なのか、朦朧としたまま時が流れていたのだと
推測することができました。

演奏に現れていた通り、
あの時、あなたはそこにいなかったのですね。やはり。

masaが本来の演奏をするためには、やはり 彼の障害特有の弱点を補うために
‟守ってやるべきこと”は必要である、ということを、改めて確認しました。

‟大人なのだから”とか‟一人でできるように”という理由で
本人の‟自立”のためには、母のサポートがなくてもできるようにならないと
と言われると、母の立場としては、それで、どこまでできるか、というところに
挑戦することも必要と納得してみました。
それで今回はギリギリと思えるところまで譲歩して任せるところがあった
本番でしたが、その結果が、やはり、本来の演奏にも影響していたと
確かにわかりました。

今回の経験のお蔭で、母が守ってやれなくなる時のための練習と称してそのサポートを
単純に他人に任せるという形で切り取る試みでは、
それを何度重ねても、
それをもって‟障害”と証される即時対応の認知能力を獲得していくことは
‟ない足で歩け”といっていることと同じくらい、有益性の低い結果が生まれることを
学びました。
つまり、演奏に際して、関連する環境を他人にお願いする状況に際した場合の、
その詳細な確認を必須として譲らないことが肝要であると思いました。

結局のところ・・、数年前に、一人で行けるようになったランニングコースの途中で
警察に保護されるというある小さな事件があったときに、
masaの主治医の先生にアドバイスされたことと同じ事でした。
できることが多くなってきて、”大丈夫だろう”と思って、適切な配慮を忘れると
うまく行っていたはずの事の中で
本人なりに能力以上に頑張って蓄積している小さな‟無理”が一転して
‟困りごと”として現れると。

こうして、10日前に‟あの演奏はどこへ行ってしまったのか”、と唖然としてしまった理由を
確認する機会を与えられるということは、やはりこれをちゃんと認識しておきなさい、
と天からお知らせいただいているのですね。
演奏という人生の縮図を経験させていただけるお蔭で、
このように気づくことも多くなるのだと思うと、関係して下さる周りの方々に感謝です。

お昼はツナとピーマンのタイ・グリーンカレー
夜は、ポークビーンズ風のスープでした。
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『今年の演奏は覚えていません。』と始まる感想文を見て、きっと
驚いていらっしゃるであろう先生に、また心の内からお話しし、
支えていただきながら、きっと歩んでいけると信じる今宵です。