~音楽と自然の力につつまれて~ e.w.Hanaの記録

幸せになりたい!幸せを分かち合いたい!言葉ではうまくコミュニケーションが取れないけれど 音楽はできる青年との暮らしの中で、 目の前に起こる出来事をどのように受け止めるか 自然の力や音楽の力に癒されながら模索していく日々の記録です。

何となく気づいたこと

昨夜、かなり久しぶりに早寝したせいか
今朝の寝覚めはとっても幸せでした。

気温も穏やかで、昨日より7度くらい高くて、
穏やかな気分で1日が過ぎて行ったことに感謝です。

最近、また気づいたと思うことがあります。


幼いころから周りの大人や友達を見て育つ中で出来上がる
自分の‟正”のスケールは、
その後に歩む人生の中でよほど大きな事件や転換が無い限り
そのまま人生を終えるまで持ち続けるものが殆どかもしれません。

名言集や哲学書の言葉から、人生訓を理解したつもりでも
自分の根底にある‟正しい”生き方の辞書がそこからずれていることに
なかなか気づかないのです。

大抵の人は、自分が‟よい”と思っている考え方については意識していますが
‟良くない”と思っていることに気づかない意識というのが
多くの場合、自分らしく生きることを邪魔しています。

私が無意識に思い込んでいたことの一つ、それは

あれこれ自分の勘の向くままに力を注ぐ事は良くない、
ベクトルをあちこち向けないで持ちうる時間のどれだけを
一つの事を深く正しく極めることにつぎ込むことができるかが
‟正しい”生き方なのだと。
筋の通った力をつけている人は、みなそういう時間の注ぎこみ方をしているのだから
誰しも あれこれやらずに本格的に一点に集中しなければならない、と。


そして、そんな何かに向けて費やす時間の精度を欠く活動は
‟自分”の今を生きていることにはならない(‟良くない”)のだと。

しかしそんな価値観は知らずのうちに環境から擦り込まれた
アスペクトであったのではないかとふと気づきました。

あれこれと、できること全てに手をだしたり、
積極的に参加してしまったり、・・・はいけないこと、と手を引っ込める
必要はないのだと。


周りの友達や、周りで起きている現象に関心を持ち時間を費やすことも
映画や小説などに興じる時間も 後ろめたさの残る時間の使い方だったのは、
そのような意識が自分に根付いていたせいだったのでした。

そうではなく、自分の心が向くのであれば、そのベクトルを一点に絞る必要はなく
エネルギーを注ぎたい対象があちこちに現れるのなら
器用貧乏と言われても、あれこれにエネルギーの向けても
それが自分らしさの中を生きていることになるのだと。

できるなら、やりたいならそれらをどれでもやることを
許されているのだと。。。


経験を積んでいく人生を通じて心よりも知性が先行していく人生後半こそ、
芸術を常に傍らに置いておくことが重要だとされる意味が
ようやく分かってきた気がします。

音楽を続けていなかったら、気づかなかったかもしれない
自分の心の在り方。。。


夕飯クリップ☆彡