~音楽と自然の力につつまれて~ e.w.Hanaの記録

幸せになりたい!幸せを分かち合いたい!言葉ではうまくコミュニケーションが取れないけれど 音楽はできる青年との暮らしの中で、 目の前に起こる出来事をどのように受け止めるか 自然の力や音楽の力に癒されながら模索していく日々の記録です。

ダヴィンチのノート

今日は、もうすぐ展示期間が終了となる
ダヴィンチの特別展を見に行きたい、と思っていたのですが、
昨夜の遅寝が響いて、身体はどこまでもゾンビ状態。
フワフワと浮きながら歩いているような感覚のまま
masaの意志に基づいて、出かけてきました。

夏休みとお休みが重なっているので、平日より混雑しているだろうな、
とは予測していたものの、この美術館、こんなに狭かったかしら
と思うほどの人が押し寄せていました。

人が多く集まると、そこの集まった人々の意識のばらけ方が
あらわになって、きっと宇宙と通じているような作品が放つ何かが
自分のところに至る前に、人が放つ何かで掻き消されてしまうような
気がします。

今日は、そもそも前述のごとく、自分の感度が厚いオーバーコートを
着たような体調で行っていたので、入ってくるものは
粗い波動の方ばかり。
折角の日本初公開という油絵も含め、絵画からは得られるものなく
いつもの展示鑑賞のような浄化は受けられませんでした。

‟万能の天才”が残した現物が放つ何かを受け取りたい、という願望が
反応したのは、絵画よりむしろ彼が残したノートでした。

‟理系の人”らしい細かく整った文字列でぎっしり書かれたノートは
実に美しくて、次々に沸き起こるアイディアを生み出す頭の中のおしゃべりを
どのように制して、この整った文字を書いていたのか・・・

・・?
これ、何語?アラビア語のように右から書いているみたいな文字だけど
アラビア語ではない。。
ここで初めて、ダビンチが鏡文字を書いていたという事を知りました。
一説によれば左右両手で両側から書いていたとか。それは、早くて便利でしょうね〜、でも、
なぜ鏡文字を書いていたのか。
様々な思考を暗号化するためだ、という説が主流かと思いきや
この鏡文字は大人になってから始めたのではなく、子どもの頃から書いていたというのです。

そこから、彼は発達障害アインシュタインも鏡文字を書いていたと)だったのだと
推測されるそうです。
自分自身がラテン語や数学といった、表面的な作業に困難(人と違う特性)を持っていることを
自覚していても、困っていたかどうかはよくわかりません。
でも、
この事が、彼の思考を深いところに焦点をあてるきっかけになっていたのかなと思いました。


展示のあちこちにはレオナルドの残した言葉が散りばめられていました。

障害は私を屈せしめない。あらゆる障害は奮制努力によって打破される
『万能の天才』のイメージだったダビンチの原点は、
この苦労をベースにした努力だったのだと、知りました。

‟幸運は自ら努力する人にのみ宿る”
この言葉もまた、‟努力”をもって克服しようとする苦しみを
彼が自分の人生のなかに感じていたことを現す言葉だな、と
500年前の人とは思えない、現代に共通する人間らしさが、
レオナルドお爺ちゃんへの憧れを更に強くした展示でした。