~音楽と自然の力につつまれて~ e.w.Hanaの記録

幸せになりたい!幸せを分かち合いたい!言葉ではうまくコミュニケーションが取れないけれど 音楽はできる青年との暮らしの中で、 目の前に起こる出来事をどのように受け止めるか 自然の力や音楽の力に癒されながら模索していく日々の記録です。

力を抜いてね、

今日はmasaの演奏タイムだったのですが、声の‟種”が発芽してない

午前中を感じていました。

声の‟種”が枯れてるのは、寝不足が要因だと感じていたものの、

確実に気力が反映してしまいます。

 

いつもは、こういう時こそ演奏タイムで思い切り歌わせていただいて

自分を浄化させていただくのですが、

今日は、センターのスタッフさんのご要望で、キーを下げ過ぎて、

全く自分の音域に合わず、不完全燃焼・・・・・。でした。

 

事務連絡でかかってきた電話にさえ、蚊の鳴くような声しかでていなかったことに

誰よりも自分がびっくりしていました。

 

帰り道、洗車をしてもらえるスタンドを探しまわり、

そののち約束していた車屋さんへ立ち寄り、

家に着いた時には、風邪でもひいたかとおもうような、

全身の凝りが。

 

masaは「お茶しようね!」といつも楽しみにしてくれているのですが、

今日は甘いものやお茶を愉しむよりとにかく休みたい、と身体が訴えていました。

 

どこかに力が入っているのだと思います。

そんな、、重労働をした記憶はありませんもの。

 

昨日の夜は、私が例えば20年後に逝去したときのmasaを見てくれる人が

いない・・ということがとても気になって、そのことをずっと考えていたと思います。

その先の生活のことはもとより、

私の生命保険を請求することさえできないでしょう、彼一人では。

いきなり‟死”までいかなくても、

急に私が倒れて意識不明になった時、彼は誰のところに一時避難できるのだろうか。

遠方の父母にさえ、頼れるのもあと10年くらいでしょう。

 

福祉行政の傘下に入れてもらって保護されるしかない、という身の上では

家族の元で一生を暮らすような豊かさを求められないと思うのは

私の偏見でしょうか。

 

状況に迫られての私の場合とは異なるかもしれませんが、

親が、子どもに結婚してもらいたい、と思う気持ちも、同じようなところから

発しているのかもしれません。やっとそんなことが分かるようになりました。

 

きっと私は死んでしまっても、ずっとmasaそばにいて守ることをするので、

大丈夫なんだ、と思うことにしました。masaが死んだ私とコミュニケーションを

とれるようになれたら、きっと寂しくないのよね。

 

なんだか、こんなことを考えているから

身体に力が入ってしまうのね。

 

masaの夢いっぱいはどこに向かって広がっていくのだろう。

彼のいる場所には、心配ではなく、、光を送ることを

忘れずにいたいです。

 

力をぬいてね・・・。と自分に言い聞かせます。