自由さを表出できる環境として
様々なことが頭を巡り、また様々なヒントを受け取り、
過ぎて行く1日を肯定して見守る1日を過ごしていました。
もう少しだけ、静かにしていようと思います。
昨晩の金スマで発達障害の栗原類さんと共に
数年前から気になっていた九州のピアニスト野田さんが取り上げられていました。
年齢はmasaより10以上上で、ピアノ暦もmasaの倍以上の彼女とmasaを
同レベルで見比べていることに無理があるとはいえ、
最初彼女をyoutubeで見た時、(障害名をタイトルにのせていて)
比較的masaに近いように思え、感心を持っていました。
当時、彼女の自室に既にあったグランドピアノと、全面的に娘をサポートしようと
彼女を観察しているお父様の存在が羨ましくて、同じような環境に憧れを写し取っていた
その彼女の今が見られました。
22歳まで発達障害であることも分からないかったというくらい
知的な障害はなく、国立大学に入学できるほどですから
障害名が同じでも、全然masaとは違うのです。話し方が純粋でたどたどしいだけで、
「障害だから」「障害があるのに」と見えてしまう一般の人々には
自分の気持ちを言葉で説明できるなどということは、
言葉のコミュニケーションが難しい、知的な障害を併せ持つ側の
同じスペクトラムの人間にとってはあり得ないくらい、
‟普通”に近い人だけができることなのだとは、わからないでしょう。。
一般社会が辿っているように見えるの理解の順序として、
見た目に分かる身体の障害の人々への理解が高まり、
次に分かり易い視覚障害者への援助が浸透し、
そして、見分けがつきにくいと言われている発達障害の人への
理解が入り口に来ました。 このあと、masaのように、
言葉と発達の両面に困難がある人間もいることは
取りこぼしなく社会に理解されていくのかどうか、・・。
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いえいえ、
今回の彼女の姿から受けた気づきは、そんなことではなくて、
masaの成長過程で私が意識的に育てたはずの規制感覚が
野田さんのような自由奔放さをmasaの内部に封じ込めて出ないように
出さないようにしているのではないかということでした。
その一部は幼いころより意識的にしてきたことで、
大人になってから社会生活に適合したり、指導する人に誤解を受けないように
従順に、良識的に行動することを絶対として教えてきたので、これに後悔はありません。
しかし彼から湧き出る朗らかさを封じ込めている原因の後の部分は
きっと、私自身が見せてきた厳しい表情だったのではないかと
思ったのです。
親一人が厳しくても、周りに家族や様々な人がいれば、それほど影響はなかったかもしれません。学校や子供会研修や部活で、年相応の楽しい時間を
過ごすことを保証されていた時代、もっと楽しそうな表情を見せることが多かったmasaでした。
それが高校時代を終えた時点で、私以外の人との交わりが
極端に少なくなりました。それは、誰しも同じ経験をする年代ではあります。
その中で、自由に自分の豊かさを表現できる安心感を得るのは
やはり、身近な人間の表情次第なのではないかと思います。
身近な人から恐怖や不安ばかりを与えられればおびえるでしょう。
可能ならば離れたい、一人暮らしをしたいと思うようになるでしょう。
我が家は辛うじてそういう場所にはなっていないと思えるだけ、恵まれていますが
静かに、でも深刻そうに考えている、あるいは寡黙に作業をしていることが大半の
・・・そんな表情の中に生活すれば、同化して
‟静かに待つ”彼が生まれてしまうのも無理はないと思ったのです。
テレビの画面の中で、おつかいの途中に興味のあるものに惹かれてついて行ってしまう
野田さんの姿を危なっかしいと思いながらも、
その心の自由さを保証された生活が
お父様とお母様の会話や表情の中にきっとあるのだろうと推察し、
「ここが、あなたの‟改善点”です」、と提示された気がしました。
今日は1日そんなことを心がけていたつもりです。
masaがもっと朗らかに、本来の彼の明るさとエネルギーを
安心して表に出せるようにするために、まず1日の大半彼の視界に入る私が
自由に軽く、安心を振りまいていることが大切なのだと。。。