クオリア
夕方ごろまでは、することをこなしているうちにあっという間に
過ぎていきました。
明日は日中練習ができないので、今日のうちになんとか目途をつけたかった
ところがありました。
でも、ボーカルのレッスンルームに辿り着いて
こんなかわいいお心遣いを手渡していただいた瞬間に
(marie先生より。中にはチョコやマシュマロなどが詰まっています。
masaの誕生日を大切に思ってくださる方が今日目の前に居る、ということが
私へのメッセージであるかのようにも感じています。ありがとうございます。)
肩に課していた何物かもほぐれ、帰宅後は久しぶりにソファに座り
久しぶりに自分の時間に浸りました。
最近‟クオリア”という言葉を知りました。
哲学用語で、
体験を通して内面の感覚で得ているものなれど、それを表現する言葉となったときに
落ちていく部分・・という概念だそうです。
例えば、『リンゴ』と言った時、色々な種類、黄色、青、赤という色、
甘いモノ酸っぱいモノ、大きいモノ小さいモノ、
気になっている姿、八百屋さんで売られている姿、
もしかしたら、台風で木から落ちてしまったリンゴ?など、リンゴも様々です。
それが、言葉として、『リンゴ』と言った瞬間に
そのリンゴが持っている色々なものが落ちてしまいます。
なおかつ、そのリンゴをどういう風に観ているかという、各人の見え方は
人によってまちまちで、そういうことは比べようがないものです。そんな風に、
言葉で表現しようとすると落ちて行ってしまうものをクオリアというのですって。
耳で考える ――脳は名曲を欲する (角川oneテーマ21 A 105)
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人とのコミュニケーションの手段が、手紙と直接会うことしかなかった時代から、
電話・マスメディアの時代を経て
メールなどが会話にかわるツールとして使われるようになった今、
言葉にならない部分が「ないこと」になってしまうことを不自然に感じない感覚が育っているように思います。
若い世代の人々がインタビューなどを受けても、的確な言葉を選択し流暢に受け答えをする姿に
感心する年配者の言葉を幾度となく耳にしたことがありますが、
これは、年齢的なことで言葉が出にくくなったという事だけではなく、
直接体験を多くしている‟年配者”の方が
共有したいクオリアを豊かに持っていることを示しているのかもしれない、
逆にいえば
若い人はクオリアを無視して、言葉を綴り、言葉となる部分だけを現実として
表現していくということに慣れてしまっているのかもしれない という気がします。
マイナンバーも今日から開始されましたが、何事もシンプルになっていくことが
良いとしてしまって、本当にいいのだろうか、とひっかかる意識があります。
そうした中で、かろうじて絵や音楽などが
言葉にならないものとして踏みとどまり、クオリアの存在を
維持しているとでもいいますか。。。
検索した情報の薄っぺらさは、よく言われることですが、
直接行ったりあったり見たり触ったりして、得られる‟現実”の情報を大切に
したいと思いますし、そういう考えに行きつくのは
日常的に音楽や花々の色合いに囲まれているお蔭かもしれない、と、
今ある環境に別の角度から感謝する今宵です。