~音楽と自然の力につつまれて~ e.w.Hanaの記録

幸せになりたい!幸せを分かち合いたい!言葉ではうまくコミュニケーションが取れないけれど 音楽はできる青年との暮らしの中で、 目の前に起こる出来事をどのように受け止めるか 自然の力や音楽の力に癒されながら模索していく日々の記録です。

ストレスなんて自分のエゴね。

何をきっかけにしてか、洞窟の中に入ってしまったかのような
masaのプレリハの演奏を夕方に目の当たりにしてからの夜の時間、
頭にも体にも力が入らず、・・。

どうして別人のような歌い方、弾き方になってしまうのか、
今日はその変容ぶりが不可解だったので、帰宅してまだmasaと話している中で
彼が、鏡を見ながら弾き語っていたことが、とりあえずわかりました。
だから、あんなにおぼつかない手元になっていたのか・・

その鏡には、後ろでジャンベを鳴らしてくれているmaikoさんや
先生が映っていたのですが、
それにしても、マイクから自由に弾けるようになったな、と思っていたあの姿は
どこへ行ってしまったのか、5年前のmasaを見ているようなマイクに張り付いた
姿勢が、とても気になったり。
明日からそして、当日、
どうやって仕上げていくのか、などと細々と考えたり、
もう大人なんだから、全て彼に任せてしまおうか、と思ってみたり・・・

でもやっぱり、自閉という特性に於いての配慮
(環境の変化に大きく影響されることを念頭において、様子の変化を理解する⇒
  例えば今日は、前回立っていた先生が座っていました、マイクを使っていました、
  ジャンベが本物になりました・・・結果聞こえてくる音が立体的になりました)
を怠るのは乱暴なことか、と思い直してみたり。

自分が物事に向かおうとする方法と、
何事も絶対感で把握しきるまで近道を求めず自然体で反応するmasaの(良さでもあり)性質が
ぶつかっているだけなのです。
大きくなり、力もついてきたからこその迷いだな・・
などと思いながら、
ベッドにうつぶせに倒れこんでいました、、

しかし次の瞬間、そんな心理は、全くとるに足らない些細な事をエゴの力が増大しているのだ
ということを知らされました。

私たち親子のことを親のように常々案じて、遠方から頻繁に電話をくれる
叔母からの、久しぶりの電話でした。
少し前に、『口外無用』をきつく言われて知らされた夫ぎみの
余命(3か月)についてこちらから話すことはできないまま、いつものように
こちらの様子を気にかけ言葉を投げかけてくれる叔母の声のを通して、
ついこの前まで普通の健康体だったはずの伯父の病床に毎日通って
一人になってしまった家で寝起きし、日々の闘病を共にしている叔母の姿を
思わざるを得ず、
その伯父が、いつも「せっかく生きているんだから、元気なうちにいいこと
楽しい事を全部やっておかんと」と言っていた言葉が蘇ってきました。

そう、何事もストレスにしてしまっては本末転倒。
今日のプレリハの経験に意義があったことだけを感謝し、
明日からまた、‟良い気分”を積み上げていくことが、
ベストな時間をまっとうすることになるのだと、気づかせていただきました。

いつも見守られていることを感謝する今宵です。